めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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レッツノートQVを持ち運ぶことに慣れる

ここ2週間ほど、レッツノートQVを持ち出す機会が増えた。とはいっても、屋外で使うわけではなく所属先にレッツノートRZ4の代わりに持ち歩くようになった。

QVを購入して1年近く経っても、重量や大きさの手ごろさからRZばかり持ち運んでいた。ただ、他社のPCではレッツノートQVレベルのサイズでも十分小さいし軽いのに、これが重いと言ってしまうのも極論な気がするし、QVを持ち運ぶことに慣れようというわけである。

持ち運びには慣れたし、使ってみると快適さがレッツノートRZの比ではない。最初のころは肩に重さがかかるような感じがあったが、今では気にならなくなった。数百グラムの差なので正直気にならない。レッツノートRZに比べると大きいが、CPUとメモリの搭載量が全く違うので使用していて処理にストレスを感じない。メモリ16GBのインパクトは8GB標準搭載の時代になってバケモノ感が薄れてはいるものの、動画などを作らせたり大量の画像を読み込ませると速い。画面も少し広いだけなのに窮屈さを感じずに済んでいる。

QVと一緒にヨドバシカメラで購入した65WのUSB PDの電源アダプターも持ち歩いている。給電はこれでまかなっている。レッツノートはコネクタが十分あるのでtype-Cハブを介してディスプレイや他のUSB機器の接続をしなくてよい。かえって持て余すtype-Cコネクタは電源供給だけで使っても特に支障はない。 自宅では電源アダプターを置いたままにして、これとUSBハブとマウスを取り付けるとストレージの拡張もトラックパッドの不自由感も無い快適な使用環境で自宅でもPCを使えるようになる。十分な処理性能を有しているので、自宅でもそのままメインとしてストレスを感じず使えている。 QVを購入するまでレッツノートRZを自宅でメインで使用していた。ゲーミングノートPCは所属先に置いたままにしていたが、ストレージがHDDでWindowsアップデートのたびに動作がフリーズして使えないことも頻発していた。それで結局所属先でもレッツノートRZを投入するという処理力の劣るPCであれこれ賄っていた時期があった。そのころに比べると快適にPCが使えている。 レッツノートQVが出たころに秋葉原駅構内で展示会をしていた。正直実機を使ってみた感じではここまで画面解像度の細かい大きい端末は要らないと思ったが、単なるブラウザベースの処理やテキストエディタ程度の処理以上の内容を要求され、それを所属先や自宅に持ち帰って扱うようになると、このレベルが最低ラインだと思い知らされた。

闇金ウシジマくんの漫画に学ぶ格差社会の脱し方

いわゆる生きている世界が違うというやつなのだろうが、近頃Youtubeを見ていて良く出てくる「ウシジマくん」という漫画の世界観がどうも理解できないし共感もわかない。作者は取材していたりモデルの人物があちこちいたりするようなので、全く虚構な話というわけでもないようである。そしてドラマが制作されたりして、支持している人たちが一定数いるわけだ。それでもどうにも理解できないのである。

理解できないのは漫画ではなく、それに出てくる社会の底辺みたいな人たちの世界観である。教育歴も中学卒業だったり高校卒業程度だったり、学歴が全てではないという人もいるのかもしれないが、それにしても狭い視野しか持たないで年齢だけ重ねたような人達しか出てこない。生きている世界があまりにも狭すぎて、半径数百メートルの中の上下関係が全てである。それでつけられる優劣は中学時代に喧嘩がが強かっただの、不良の武勇伝だの、犯罪自慢だの暴力団とのつながりだのといった話ばかりである。

いつまで中学校でどうしたこうしたという話を引きずるんだろうとか思うのだが、社会の底辺の一生は中学校で決まるのだろう。それは、今日本全国のあちこちで起こっている地方の衰退とか、社会の底辺が経済的に次第に詰んでいることとあながち無関係ではないように思われる。

年齢を重ねるにつれて、自分の周囲以外に広がっている広い世界のことを知って、今の自分の現状を自覚する。これがスタートラインで、そこから今よりも学業だの仕事の技能だのを上積みしていってこれまでよりも上の段階を目指す。それは進学だったり、職業上の研鑽だったりする。ところが、社会の底辺の人たちにはそれがなく、まるで老後の年寄りのような生活を毎日繰り返す。毎日漫然と出勤して、これまで通りの内容を単純作業のように繰り返し、そこに何の積み重ねもステップアップも無い。そうしているだけでお金がもらえるのでそれを繰り返す。賃金を出しているのは誰か分からないが、暴力団と大して変わらない地域の上下関係の上位者だったり、仕事にあぶれた者へのニコヨン的な公共事業かもしれない。とにかく、その仕事を続けている限りは雇用者がそもそも筋が悪いので一生昇進することも無く最低賃金以下で酷使されて終わりである。

しかし、その仕事をやめようにもやめられない。ひとつは毎日だらだらと同じことを繰り返していればそれでよくて、余計な勉強や研鑽をしなくて済む。そして、他の地域に出ようにも学歴も技能も無いので社会の底辺が就く仕事しかないが、他の地域にはびこっているチンピラ集団の優劣関係の中にいないので仲間に入れてもらえないし、せいぜい一生下っ端として突かれて終わりである。だから外に出て勝負することがない。

かくして、外部の世界との出入りの無い社会の底辺のコミュニティは経済的に停滞する。高度人材の無い地方だと地域全体が社会の底辺コミュニティなので地域が停滞していよいよ衰退する。だが、高度人材になろうとする者がいないし、そういった人たちを育てようともしないので衰退はずっと続く。

こういった伸びしろがない地域では、仲間内での騙しあいや奪い合いが横行する。それこそウシジマくんの世界である。上下関係での搾取とか、人のつながりを介して相手を騙して搾取したり奪う。それから、どうせ底辺ばかりで本物はいないので、本当は何の資格も無いのに経済的なことや医療のことや法律のことなどで専門家ぶったり本職とのつながりをアピールして、でたらめな内容で相手を騙す行為も横行する。そこには暴力団との関係を匂わせた脅しもある。その中で社会の底辺の人たちは一生搾取され続ける。

ウシジマくんの漫画に共感している人たちの世界から出れば、社会の閉塞感だの格差社会だのの呪縛から逃れることができ、精神的にも経済的にも身体的にも自由に生きていけるのである。

ヘッドフォンの話

6年くらい前にヘッドフォンを購入してずっと使っていた。今はスマートフォンのイヤホンマイクがビデオ会議などで当たり前に使われる装備になっているが、そのころは特に重要性を見いだせずに普通のヘッドフォンを購入した。そんなに高価なものも必要ないので2000円台のものにした。手頃なサイズで折り畳みができたりして気に入って使っていた。

ところが、ヘッドフォンの耳当てのところが劣化して破れたり剥がれたりし出している。これを覆うためにカバーが売られているが、2000円くらいと結構高い。要するに、買い替えたほうが安いのだろうけども、音響機器としてはまだ使えるので耳当てだけのために廃棄する気になれない。

黒のTシャツの生地とか、自分でなにか素材を見つけて糸をかけて耳当てのところをカバーしてしまえばよさそうである。あるいはディスポーザブルな不織布のカバーは安価なのでそれを使うのも良いかもしれない。洗濯可能とうたっている中国メーカーのものも1000円くらいである。その辺をAmazonで探して購入するか。

一方で、所属先のゲーミングノートPC用にゲーミング用ヘッドフォンを購入した。頻回にビデオ会議に使用しているのにイヤホンマイク装着で、このマイクで確実に音声を伝えるためにケーブルを口元に手繰り寄せる使い方を続けていて、それならばマイクのついているヘッドフォンを使った方が良いわけで安価なものを探した。

店頭でも2000円前後でものが売られていて、スマートフォンでも使用できるとうたっている。要するにイヤホンジャックにそのまま入れられるということであるから、PCのイヤホンジャックに刺してそのままイヤホンマイク代わりに使えるわけで、それで済ませた。USB端子からLEDを光らせる電源をとる方式になっている。いちおう光らせてはみたが、無くてもよいような気がしている。これでビデオ会議は多少楽になりそうである。それから、音楽も視聴してみたがイコライザをいじればそこまで悪い音ではなかった。

セイコーメカニカルをあちこちで使う

5年ほど前に購入して、使用2年目で止まるようになって使わなくなり、5年間の延長保証が使えることが分かったので急遽修理に出して戻ってきたSEIKOの機械時計がある。

壊れた際に代役として投入したSEIKO5が値段のわりに案外実用的で、それがあるから同じようなものは二個も三個もいらないだろうし、そこまで使わないだろうと思っていた。ところが修理から戻ってからは、もっぱらこればかり使っている。

手軽に使えるという点ではセイコー5のほうが優れている。ただ、若干安っぽいところはあるし、手巻きできないので常時つけておかないと止まってしまう。その点、メカニカルのほうは手巻きでもゼンマイを巻けるし、ROLEXほどの威圧感は無く、SEIKO5ほどの安っぽさはないが、そこそこ良い質感で様々な場面で使いやすいので使用頻度が増した。

ムーブメントは実際のところ手巻きできるというだけでSEIKO5とさしたる差は無いような安い機種だと思うのだが、ケースやブレスレットが分厚くグランドセイコーほどではないが高級感がある。PC入力しているときはそれが当たって邪魔なので外しているが、基本的に一日中つけている。

旅行に行くときにこれまではROLEXを使うことが多かった。ROLEXは長時間装着していても腕が疲れない。ただ、これからはSEIKOのメカニカルでもよい気がしてきた。

災害時にマスコミ報道は役に立つのか?

NHKスマホから受信料徴収の口実なのだろうが、災害時にスマホを取り出して災害報道を見るという映像の広告がTwitterで流れていた。災害時に命を失いたくないならNHKスマホ所有者に受診料徴収しても文句言うなというアピールなのだろう。

問題は、最近のスマートフォンはキャリア端末でもワンセグ機能を無くしたものが増えている。だからなにか受信するときはラジオかデータ通信ということになる。スマートフォンに付属しているラジオのほとんどはFMである。ただ、FMは地形や建造物で電波が来づらいとか、放送エリアも狭い特徴がある。一方でAMラジオは各局とも停波したがっていて、災害時にラジオが役に立つ時代というのはそう長く続かなさそうである。また、データ通信にしたってNHKの配信する内容を全員が受信するわけではないし、そんなことをしたらサーバーがパンクするのは目に見えている。しかも、動画配信だとデータ通信量が多いので、災害時にたくさん人が利用する状況で余計な通信を増やして通信しづらい状況を作ることになる。

災害時に役に立つ情報手段を確保したいのであれば、容量が限られている既存のデータ通信に何かコンテンツを流して対策しているようなふりはしなくてよい。単にコンテンツを流すだけならば、電波送信施設などは使用していないのだからそのへんの底辺Youtuberが動画編集に要しているコスト程度しか受信料のような形で利用者に転嫁してはいけない。既存の放送網を維持したいのであれば、それこそauの通信障害でひとり200円程度の賠償でも利用者全体では数十億の財源になるのだから、利権が絡んでいる芸能人の起用を一切やめて、役所体質で予算を消化するような体質もやめれば、固定電話回線維持の基金同様にAMなりFMなりの放送網維持程度は可能である。

私の生活の中にはテレビがない。ちょうどデジタル放送が首都圏で始まったころに急を要するわけでもないのでテレビを持たないことを選択して、その後液晶テレビが主流になったがそれもいくらするのかわからないし、購入を躊躇しているうちにテレビが全面デジタル化されたが、そのころにはテレビ無しに慣れてしまったので結局テレビを持たずに今に至っている。ラジオは持っている。ただ、ほとんど聴いていない。放送時間に合わせて自分の時間を割くようなことができないからだ。だらだらとどうでもよい内容のために自分の時間が無くなるのが面白くない。それで時々電源を入れてもすぐ消してしまう。

高低差の無い低地で洪水だの津波に注意だの言われても、どこまで行っても平地なのだからせいぜい建物の高層階くらいしかないし、それならば自宅にこもっている方が安全である。地域の避難所の話などは全国放送で流れるわけがない。それは拡声器で直接広報される防災無線のほうがあてになる。そもそも、アベガーの肩を持って世論を誘導しようとするマスコミが災害時だけ善人に戻って避難誘導してくれるわけもなく、物見遊山で興味目的で取材に来るのが関の山である。災害時にマスコミは当てにならないのである。

マスコミが取材をせず記事を量産する件

マスコミが報じている内容はきちんと取材した内容なのか、それとも取材せずに想像で書いているのか、何かしらのイメージを定着させたい意図を持った者がストーリーなり原稿そのものなりを渡して、それをそのまま右から左に報じているのか、これまで時々疑問に思うことがあった。

官庁に記者クラブがあって、そこに参加していないところは記者会見も出ることができず報じる権利を持たないというのは、マスコミに居場所を提供する便宜を提供するかわりに官庁の意図する内容しか報じないし踏み込んだ取材もしないというマスコミの姿勢を表しているようなものである。特定のストーリーをあらかじめ組んでおいて、それ通りにマスコミに資料を渡すと各社ともそれを右から左に流すように報道してくれて告知とストーリー定着に協力するし、踏み込んだ取材をしたら記者クラブから追い出されるのでしないという自主規制で何十年も記者クラブの席を維持できているのである。

だからマスコミはまともに取材をしないのがデフォルトなのだと思う。それはSNSの時代になって顕著になっている。事件が起こると現場に取材に行かずにSNSで現場の写真を撮影した人物に連絡をして、画像や映像を無償で著作権権利譲渡して使用させるように脅迫するような真似をしたり、現場に行ったとしても実際に事件を撮影した者から借りたSDなどを紛失したり返却しないなどのいい加減な扱いをしてたびたび実態が晒されている。

それから、Yahooのアプリを使っていると芸能ニュースでもっとひどいものがある。正直これがニュースの中に出てくるとスパムとしか思えないのだが、なくならない。「芸能人が自撮り披露、キレイと絶賛」みたいな構成の記事である。大体が取材はしておらずTwitterInstagramに芸能人が写真を掲載した、それに対してネットの声をいくつかコピーペーストして大体は絶賛の内容、というような内容である。これが人物を変えて次々掲載される。どうでもよい内容というのもそうなのだが、写真は修整がされているだろうし、絶賛以外の声だってあるだろうし、その絶賛している内容だってサクラかもしれない。

そして、こういったSNSで写真披露みたいな芸能人が大体はピークを過ぎて忘れ去られかかったような人たちばかりである。そうすると若いうちからお茶子と大して変わらないようなことをしていたに過ぎないのに政治や社会を語って極端な思想を支持しだしたり、毛染めに整形手術で若作りを必死でして何歳には見えないみたいな話題でニュースアプリのスパムになったりする。昔だと夜の街で飲み屋とかトルコくらいが行く先だったわけだからましになったのかもしれないが、やはりSNSで半端に写真を掲載するくらいならば芸事できちんと精進すべきだと思う。

人を見下す行為の落とし穴

人を見下すような言動をとってはいけないと常々思う。

相手を見下す行為はあくまで主観から行われることであって、実際の相手の社会的評価との間には大きな隔たりがあることが多い。ところが、人を見下す言動に慣れてしまうと、周囲の評価は目に入らなくなり己の主観的な評価が他者とも共通の認識であるように思いこむようになる。

こうして言動が固定化され一層偏ったものになり、相手への現実の評価との乖離が一層進む。ところが、どれだけ見下しても相手は評価され続ける。そうすると相手に肯定的な評価がなされることが理解できず、さらには許されないと考えるようになる。そして、相手の周囲をたえず監視して、少しでも肯定的な評価がなされると狂ったかのように否定するようになる。この時点で周囲からはおかしい人物だと距離を置かれるようになる。

更には、そんな相手に危害を加えても悪くないと正当化できるとまで思うようになり実際に危害を加えるに及ぶ。そうなると社会的制裁の対象となり、社会の敵になるのだが、本人はその理由を理解できていない。そしてさらに憎悪を募らせるを繰り返す。

対等とかフェアという概念がなく、すぐに自分が上で相手は下だとか上下関係にこだわったり、物事の言い訳に自分は悪くないのに悪者にされるオヨヨヨヨ泣き真似と他罰的なことを言う者にその傾向がある。そういった言動をとっているとまともな人は相手にしてくれなくなるので、似たような仲間でつるむようになる。彼らはお互いの偏った主張を同意しあう互助会である。だから、仲間でいるうちに一層おかしな主張が強化される。

自分のすべきことをして相応の成果を得て納得していればよいし、納得いかないならば物事を改善して良い結果につなげて自分の利益にしていけばよいのに、それができずに他にばかり目を向けている。他者を見下すことで自分の立場が上がると見込んでいたり実際そうなっていると思い込んでいたはずが、現実は価値判断の基準を見誤らせてかえって自分の立場を失っていたのである。

おかしな言動をとっている者が目の前で時間経過とともに極端な言動をとるようになりヘイトクライムに手を染めてコテンパンに制裁され、それでもなんでなんで自分は悪くないと言い張りながら退場させられる様子を何度も見てると、言動は習慣化して日頃のふるまいに出てしまうので気を付けなければと思う。

関わってはいけない人達

Twitterを見ていたら、タランチュラみたいな名前の人物のトラブルが書かれていた。芸能人として扱うには何とも微妙な人物なのだが、そういう系統の人たちの商材写真を撮影している写真家とトラブルになっているほか、ファンとの間での金銭トラブルや、支援してくれていた知人に対しても問題行動を起こしている。

ところが、それに対して追及するとすぐに本人が意識不明になって入院して追及や交渉が成立せず、訴訟を起こしてくるという。意識不明のわりには回復が早いので器質性のものではなく精神性と思われるが、俗にヒステリーともいわれる解離性障害の症状と思われる。

初めから相手にしてはいけなかったり、関わって来ようとしたら手段を択ばずルートを断ち切らなければならない人物というのはいる。

カルト宗教の勧誘とかもそうだが、この自称芸能人のトラブルのように精神医療につなげるには微妙な病名だったり、そもそも本人に病識が無くて野放し状態で各方面で問題を起こしている例もある。己が目立ちたい、人から称賛されたいといった願望を持っているが、その原資となるような資質は備えておらず、周囲の利用できそうな者を探してはとり憑いて利用するだけ利用しつくして、これ以上使えるものがなくなったら使い捨てして次のターゲットを探すを繰り返す行動の傾向がトラブルのもととなっている。

その行為を繰り返す限り周囲とは絶えずトラブルが生まれるが、繰り返さない限り見栄をはれなくなるのでやめようとしない。そして、言い分は周囲が悪いのに自分が悪く言われるという内容が大体どいつも共通していて、それで泣き真似をするとトラブルには巻き込まれていない周囲の無関係の者が同情して批判者を一緒に攻撃してくれる。ところが、こんどはその無関係な者を巻き込んで同じようなトラブルを起こすので、次第に周囲から人が減っていく。

相手と接している中で関わってはいけないと察知したら、徹底して身の回りから遮断しなければならない。少しでも接点を作ってしまうと、相手にしてもらえると認識され、入り込む足掛かりから再び身の回りに入り込んで排除できなくなり、あれこれ被害にあう。そして最後はなぜか被害にあったほうが悪かったことにされて何も知らない人たちから攻撃されるか、この自称芸能人の例の様に主張をゴリ押しする団体の所属だったりしてシンパを利用して対応が追い付かなくなるまで疲弊させる目的で訴訟を乱発するという暴挙におよんでくる。

要するに、初めから相手にしてはいけないのである。相手にするならば、己の社会的立場から信用から一切合財失い、そいつらに差し上げる覚悟が必要なのであるし、それに対して寛容でなければならないのである。人の話に耳を傾けなければいけないとか、マイノリティには親切にしなければいけないとか、表面的な教えに従ってばかりいられないようなケースである。