めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

ADs

消費対象としての弱者

多様性の尊重される社会の実現を主張し、相手に対してそうであることを時には脅しまがいの手法まで用いて半ば強制的に求める一方で、己は他者の価値観を全く認めないし偏狭なものの見方で社会のことを知ったように語る者がいる。どうも、そういった人たちというのは多様性を求める者のほうにその傾向があるように思われる。

ひところtwitterで反差別運動を掲げていた芸能人がいたのだが、芸能ニュースで離婚したことが報じられた。これなどはそういった典型例で、反差別とか多様性とか共生社会とか相互理解といったキーワードをしきりにtwitterに書き散らかして、その手の運動の先鋒としてRT数を集めてその界隈から支持されていたはいいが、肝心の毎日一緒に暮らしてきた身近な者たちと仲良く生きていく事ができなかったのである。

この芸能人に限らず、所謂リベラルとかパヨクと言われる人たちに見受けられる傾向である。表向きは弱者に寄り添うと称しているのだが、実際は憐れみをかける行為に自己陶酔していて、肝心の弱者に対する支援はその欲が満たされたら終わってしまう。あるいは、弱者がその立場から抜け出そうとする努力はさせないし、それをしようとした瞬間から敵とみなされて攻撃対象になってしまう。そして、弱者救済を社会に求めるのであれば、それは普遍的で差別的な扱いはあってはならないものなのに、彼らが憐れみをかける対象は子供とか障害者とか分かりやすいものばかりで、みすぼらしいオッサンとか弱者の要件を満たして困窮している者もいるのだが、そういった方向へは見向きもしないしむしろ差別的な言動を吐き捨てる。

ここ数年間で消費対象として使い捨てられてきた弱者がどれほどいただろうか。アイスバケツチャレンジは今誰のところに番が来ているのか分からない。9月1日の図書館の子供も義務教育のままで引きこもったままでは単なる中学卒業の有職青少年である。散々twitterで話題にして、支援しているアピールをしてきた人たちは現在も彼らに継続的に支援しているだろうか。おそらく皆無だろう。支援ゴッコで盛り上がりたいだけで、弱者は消費される素材に過ぎない。ただでさえ社会から疎外されていた当事者たちは置き去りで、ブームが去ったら何も現状は変わらないままで一層疎外と分断の外に追いやられる。

一時的にブームで行い散らかされている支援なる行為を目にしたとき、あるいは当事者が巻き込まれたとき、手っ取り早い利益の勘定ではなく長期的な視点で見たほうが良い。実際のところ、言動が不安定で付き従ってはいけないのではないか、そう冷静に見直したほうが良い。支援支援と称しているが、twitterでRTやイイネしかしておらず、当事者に何ら支援が行き渡っていないのではないか。騒いでいる人たちは支援能力など全くなく、目先の話題に飛びついて批評家気取りすることで自分の立場を作ろうとしているに過ぎないのではないか、長期的に見てみると数か月後には自分が批評したことを忘れて別のもので大騒ぎしていたり、真逆の主張をしているのではないか。

言動の毀誉褒貶が一定しない者は、いずれ己の敵になる。人間関係や社会関係の中に殊更に対立を作り出して、その中で主導権や注目が自分だけに集まるように画策する。それが上手くいかないと敵扱い、さっきまで真っ只中にいたのに、差別だの権力の手先だの言い出す。その程度の言動なので、まともな人間関係を築くことができず、あちこちに接近と対立・離反を繰り返して渡り歩く。同じような仲間とつるんでいても結局いつもの癖が出て、結局対立する。そして内ゲバとか言われるような仲間内の価値観の違いで相手を全否定して組織が分裂するを繰り返す。

今、twitterなどで弱者支援と称して、これまで述べたような言動を繰り返していることに気づいて、本当に誰かに手を差し伸べたいと思うのであれば、意識して行動を変えていくことだ。否定形を付けたり揚げ足取りをして自分の立場を築く癖を意識して捨てることだ。不安定な言動は自分の周囲からまともな人を遠ざける。否定形は努力せずして自分の立場を作れると錯覚する基になる。悪い言動が積み重なると、同じような者と自画自賛しあってつるむことしかできない一方で、さらなる否定をしなければ生き残れないので最後は仲間を破滅させる道しか残っていないし、一層言動が極端になって社会の実態から乖離した化け物になってしまう。そういった言動をやめて、目立たなくてもよいし誰かに勝つ必要も全くないから、現実に誰かの支援になる募金や寄付や手助けを積み重ねることだ。