めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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日本航空123便にまつわる我が家の話

8月12日は日航機墜落事故の日である。私の父は寸前のところで事故機への搭乗を免れており、ある意味事故関係者である。

1985年のお盆期間、家族は一足先に九州へ出かけ、父は仕事が終わってから東京を出て現地で合流という流れで移動することとなった。

8月12日の夕方、羽田で当日キャンセル待ちの枠を利用して大阪経由福岡行きを取ろうとしていたそうだ。今より飛行機は割高感が強く、キャンセル待ち搭乗は比較的容易であり、乗り継ぎの方が直行より安価だったのでそういった乗り方をしようとしていたようである。

ところが、羽田では乗り継ぎではなく直行を勧められたので、それに従って福岡行きの直行便に搭乗した。到着先の福岡空港日航機行方不明のニュースで騒ぎになっており、その日航機こそが当初キャンセル待ち搭乗しようとしていた大阪行のJAL123便だった。群馬県内の山に墜落しているところが発見されたのはその翌日である。

以来、飛行機利用の際は極力命の恩人たる日本航空を利用するようにしている。先日、先祖の主君の家の墓へ行った際、同じ寺の境内に日航機墜落事故で犠牲になった歌手の墓があった。wikiを見ると、著名人でも事故機への搭乗を寸前で免れたエピソードがいくつか書かれており、運命の分かれ目は案外身近にあり、誰しも当事者になりうるのである。

日航機事故の話は人にしないようにしている。する時も、相手が信頼できる人物でないとしない。

この1985年の日本航空123便墜落事故は、陰謀による撃墜だという荒唐無稽な主張を唱える者がいて、そうすると事故を免れたことは陰謀を否定することになるので執拗に敵視されて攻撃されるリスクがある。また、私が社会的に成功したり評価を受ける事をよく思わない連中が死ねばよかったといった暴言を吐いて、事故犠牲者を傷つけることになりかねない。それに、最近跳梁跋扈している極端な主張を掲げて自粛を強制したり、不謹慎だと言い張って他人を攻撃する材料にする輩の標的になりうる。

事故を免れた、ただそれだけの事実を言い出せないように仕向ける連中が多いのである。それで、事故を知る人達も高齢化している中で、事故の記憶を人に話せない。

実感を伴った事故の記憶は社会の中で風化へ向かっている。私はその当時の父の年齢を超えた。それでも、あの1985年8月のように土も草木も火と燃える暑い季節が今年もやってきた。