めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

ADs

両国予備校をふと思い出した出来事

以前、東京の両国駅の近くに両国予備校という大学受験予備校があった。両国駅から錦糸町駅にかけての線路沿いには両国予備校の教室であることをアピールするような小さなビルが何棟もあった。教室が分散して大変そうだと思ったものである。広告は医歯薬理工系文系学部に強いとアピールしていて、それは大学のほぼすべての学部学科であり、結局なにが強味なのかわかりにくいように感じた。駿台河合塾代々木ゼミナールに比べると、マイナーで見劣りする感じの予備校だった。

その両国予備校は2000年代の半ばごろに経営が行き詰った。2005年から2006年ごろだったと思う。校名がコロコロ変わって結局その後は消えてしまった。時期としては大学受験人口が今後減少することがはっきり確定したころであり、過年度で受験をするという選択肢が少しずつ少数派になりつつあるころだった。大手の代々木ゼミナール河合塾も医学部受験に特化した校舎を作り始めていた時期で、昔ながらのスタイルで大教室に生徒を集める全国展開の予備校ながら、特待を乱発しまくって生徒を獲得に必死で、どうやって学校運営の収益を得ていたのかよくわからない状態の頃だった。大手が既存の手法が行き詰って泥仕合している時期に、何が強味かはっきりしないような予備校には勝ち目がないのは明らかだった。

全寮制にして生徒を囲い込んで根性論の標語を暗記させる一方で、肝心の勉強のほうはお留守で受験結果が今一つパッとしないような予備校が生き残れる訳はなかった。両国予備校は根性論の標語ばかりで、厳しい校則がアピールポイントな一方で、特に売りになるような講師や授業は無かった。実績もぱっとしなかった。他の予備校では標語の暗記とか厳しい校則だのやっている間に自由に勉強して実力差が開いていたのだ。寮生活も根性論も厳しい校則もどうでもよくて、きちんとした実績で志望大学に行くことがすべてであり、それが何よりも受験生の一生の糧になる大切なものだった。予備校の方針などどうでもよくて、大学に行ってこそ予備校に通う意義の全てなのに、それに応えることができないのでは受験生が集まらないのは当然だった。その点、自由に好きなだけ勉強しても何も言われず、講師の質を売りにしていた代々木ゼミナールですら2010年代には校舎を大幅に削減して中学受験の塾を傘下に収めてようやく存続できているのだから、両国予備校がそれに10年先んじて廃業したのは正解だったのかもしれない。

両国予備校は高畠金蔵という人が代表で、大学受験についてのランキング本のようなものを毎年発行したり、ラジオの大学受験番組に出演していた。これはある種の広告塔のようなものだったのだろう。入塾に比べれば負担感の少ない書籍やラジオ番組でもっともらしい内容を流して、それを入り口として受験生をろくすっぽ授業も勉強もできないが学校の方針でとことん拘束支配する大学受験には何らプラスに貢献しない予備校への集客に用いていたのだった。両国予備校Wikipediaを見ていると、1948年に千葉市で高畠氏が英語塾として創業したのが始まりというから、2023年時点で既に創業から75年経過している。予備校の廃業も2005年ごろだから既に18年くらい経過している。

ここで興味を抱くのは、高畠氏の現在である。予備校講師は個人事業者なので一旦教場に出なくなると生死不明なことが多いが、良い意味でも悪い意味でも有名だった高畠氏がその後どうなったかは興味あるところだった。はじめの英語塾からの年数を考えると、当時23歳くらいでも98歳以上ということになる。現実はもう少し教育に携わってから独立したとか加味すると100歳超えていてもおかしくない。そんな高畠氏であるが、先日その名前を見かけた。東京都内の会社の株主のところに元両国予備校代表の肩書で名前が出ていたのである。現在の年齢は100歳近いと思われるが、まだご存命のようであるし、予備校は廃業しても十分留保はあったか両国駅周辺の不動産資産を十分持っていたからか、投資家として現役のようである。

その一方で、廃業に際して訴訟が起こるほどに従業員に対して十分に説明責任を果たしたとは言い難く、予備校の教育自体も様々な疑問を抱かせるような方針で、予備校や学習塾としては失敗例としか言いようのない終わり方をした予備校の名前を何年もたってから肩書に添えて表に出てくることについて、当時の受験生や職員たちがどのような気持ちなのか知りたいところである。