めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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権利の行方

これまで、物事について客観的に評価するときに全数調査よりも全体の中から有効なデータの取れる一定数を抽出して、その結果を全体を表すものとして評価する手法がとられてきた。しかし、コンピュータの処理力や情報収集力が強化されてくると、そんな面倒な実験モデルを作らなくても全数評価が可能になってくる。
物事のデータがどんどん蓄積されると、次第にその因果関係に対する一定の結論が定まってくる。それは、物事に対する様式を標準化する。つまり、データの指し示す様式に反する行為は物事の失敗の原因になる、という状態がほぼ固定化する。逆に言えば、それに反する行為をするという信条や個性は認められない画一的な社会になるということだ。
自然科学系はほぼデータであるが、その中で医療分野は今一つ標準化が進んでいなかった。しかし、今後は患者が万全性を求めれば求めるほど、医療者の側はデータの蓄積に走るだろうから、治療方法に対するエビデンスと治療選択については一定の方式に収束することになる。
これはくせものであり、特定の方式以外は効果が無いのだから、そこで患者が個人の権利や信条を振りかざしたところで、それは標準化された治療方針から外れるものであり、外れるほど治療の結果を悪くする浅知恵として片づけられることになる。
現実には治療が不可能な疾患が多いから、そこまで画一化することは難しい。しかし、患者の権利を振りかざして医療に万全性を求めるほど、彼らの権利主張が治療の妨害行為として片づけられ、権利が狭められる結果になるという皮肉な現象が起こりうるということである。
それでも、周りと違うことをする権利があるというのであれば、勝手にすれば良いのだと思う。だが、その結果が悪く出た時も、大きく評価された時も、責任は自分で負う覚悟が必要である。
これまで、消費者や住民や患者や、権利を主張する団体は自分たちの不利益を社会のせいにしてきた。そして、自己責任論は弱者切り捨てだとしてきた。その一方で、その権利が実現し運用の手をゆだねられたときにどうするかについての方策は無かった。
良くも悪くも、ネットのせいか個人が主張をして、その動きが社会的に大きくなって、結果的に物事が実現したり社会が大きく動く機会が多くなった。そのような時代になっても、自己決定の権利を振りかざすことだけがはびこって、肝心の決定をする自己の責任からは逃げるようでは、本当の意味での自己決定の土俵には立てない。