めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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日本語が使えなくなる日本

教育で早い段階から英語を導入しようとする動きが度々ある。そして、毎回反対論が起こり、よくわからないうちに問題はうやむやになって消えてしまう。反対論の内容は概ね一つの方向であり、日本語本来の美しさや用法を十分学んでいないうちに英語をする必要はないというものである。

だが、それ以前に現在の日本語の教育では言葉を使う際の論理性や体型だった文法に特化して学ぶ機会は無いだろう。せいぜい学校教育の「国語」は、あちこちの書籍から引用した内容の寄せ集めに線を引いて終わりである。だから、現在の学校教育では「正しい日本語」を学ぶ機会が無いままで、英語教育反対論者の言うところの正しい日本語なるものを使うこともできず、かといって厳密に間違っているわけでもないであろう、日本語ではない何かを身に着けて学校教育を修了するのである。

その一方で、そのへんを見回してみると、アルバイト店員に日本人でない者がかなりの数いる。あるいは有名な観光地に行くと訪日外国人がかなりの数目に付く。ちょっとした地方の都市に行ってもビジネス目的と思われる外国人を見かける。これは20年前では考えられなかったことだ。彼らは日本人と関わる場ではある程度は日本語を使う必要がある。その日本語は、発音も意味も崩れている。それこそ英語反対論者が発狂しそうな日本語を使っている。

だが、今後は企業の国際展開や、様々な名目で単純労働や低賃金労働に途上国の外国人を充当していく流れの中で、彼らの崩れた発音で辛うじて意味の取れるアレが標準の日本語になっていくのは避けられない流れである。そして、片言の日本語で業務を行う人口がもっと増えると、同僚の日本人も仕事の効率が上がるように合わせる必要が生じる。業務マニュアルも、日常のやりとりも、その怪しい日本語に依拠するようになる。

そのうち、出版不況以前に、日本語の意味が浅くなって日本語で表現すること自体が困難になったり、正常に解釈できる読み手が減る。そして、日本の社会の中に経済の二極分化的な格差の他に日本語能力の格差が生じるようになるだろう。それは概ね、頭脳労働と単純労働のようにオペレーションを単純にする必要があるか否かによって分化していく。

こうして、日本語は崩壊していく。日本語が使えなくなったら日本で暮らす外国人たちはどうするか?それは自国語を使えばよいので関係ない。日本に住みながらも、出身国の言語で全てを済ませればよい。その中で暮らしていけばよい。日本の中に占める言語の比率が高まれば、利便性はシェア数がカバーしてくれる。自国語の通じないところは避けても不便が無いほどになるだろう。

ここまでくると、自分たちの考えを自分たちの言語で表せなくなるのは日本人だけだ。考えを奪われるのは日本人だけだ。その頃には政治や経済の主導権を奪われる可能性すらある。言いたいことがあっても、それを言語化して表明できない。主張を封じられていくうちに、社会の物事は全て日本人以外に取り仕切られていくのである。

日本は侵略をされたことが無い。ネット右翼特定アジアの日本支配を指摘しているが、それもまだまだ平和ボケの域を超えていないように見受ける。現物の侵略はもっと苛烈だろう。外国人は日本に何かあったら、すぐに他国に逃亡できる。日本人には簡単にそれは出来ない。日本が他国の勢力に侵食される可能性はある一方で、利用価値が無くなったら簡単に捨てて逃亡されてしまう。残されるのは日本人だけである。

早期の英語教育は必要無い、日本語を徹底して学習すべきと主張している陣営が言及を避けているのか、主張が欠落しているのか、なぜか触れない面が「何を学ぶか」である。論理性を持った言語と、論理が築き上げてきた学術や政治や経済を自分たちのモノにすることで他国と渉りあって行ける現在の世界の中で、生き残っていけるだけの言語力を身に着けるという話は出てこない。花よ蝶よの感情的な読み聞かせに終始する学習をすると、引き換えで何かが身につくのだろうか。