めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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人間関係の上下に固執する者の退治法

メンツを重要視する文化というのがあるらしい。

対人関係に対等という概念がなく、自分が上下関係の上位に立つことを至上とする文化のある中国や影響下にある韓国はその傾向があるようだ。もっとも、それは国や文化によらないだろう。日本国内で生粋の日本人の中にも異常なまでの見栄にまみれた者や、自分を他者より上の立場だと思わないと精神の平静を保てない者というのはいる。

そういった傾向のある連中にメンツを突き崩すようなことをすると、後生恨まれるのだという。

彼らの精神上は他者に対して優位を保っていたつもりが、ふとしたことでその前提を突き崩されて見栄が崩壊し、他者の前で「その見栄は、本当はそうではない」と認定されるような出来事が起こる。そうすると、優越感が崩れてしまい、他者から下に見られてしまうという精神的屈辱を彼らは感じる。これは彼らがこれまで保ってきた社会生活の上下関係を台無しにする行為なので、メンツを台無しにした者を徹底的に敵視し、下手すれば加害するレベルで恨むのだという。

だから、中国文化に詳しい人たちに言わせると、かれらのメンツを尊重しなければならないのだという。支那人に限らずその辺の見栄っ張りにおいても、おそらくは同じようなアドバイスがされるだろう。正直、このアドバイスは即時却下したい。この種の連中のペースに合わせていると、結局メンツにこだわる本人だけが得をして、それ以外が疲弊する結果になるからだ。

基本的に、自分のメンツを必死で保とうとする者は、メンツのためには周囲の者を動員して犠牲にしてよいと考える傾向にある。相手のメンツに迎合してしまうと、合意したものが上下関係の下の側になったという認定を許してしまう。それを既成事実として、「下の者」に対して次々と無理難題が降りかかってくる。しまいには、下の者には何をしても許されるという発想のもとに、下手すれば反社会的な行為や相手の都合を犠牲にするような要求をするようになる。それは従って当たり前という態度でなされる。さすがにこの状態が続くと、要求される側は疲弊してくる。善意にも限度がある。反発や復讐は覚悟で逃げるか、そのまま犠牲になるか、二つに一つのところまで追いつめられる。

メンツにこだわる連中の犠牲にならないために、あるいは精神を追い詰められないためには、相手にしてやる物事に限度を設けるとよい。ある程度の内容は対人関係上、社交辞令的に応じてやる。しかし、許されない限度を超えた時は強い態度に出る。

先ほどのメンツにこだわる者の逆恨み理論から言えば報復が待っていそうだが、案外そうでもない。これまで何人か、この手のメンツにこだわる見栄っ張りにカモにされかかった。そして、とんでもない要求をさも当然であるかのような態度で吹っかけられた。そのときに、「そんな訳あるか!」と大きな声で言い返した。その時の相手の反応は、いずれも別の人物なのに同じ反応を示した。

いずれも言い返した瞬間に沈黙して、今にも泣きだしそうな顔、おびえたような顔になった。まるで、これまで通じてきたはずの神通力が通じないことへの当惑の顔、妄想から覚めて権威など無いと悟った時の丸腰の者の顔、そして弱いものが復讐におびえる時のような顔になった。面白いほどに共通の傾向があった。

もちろん、それはその場での一時的な反応で、目の前から怒り狂う私がいなくなったら逆恨みしだすのかと思いきやそうでもなかった。メンツにこだわる見栄っ張りは、どこまでも見栄っ張りだからだ。彼らは私との場で崩されたメンツを取り繕うために、メンツを面と向かって崩してくる私を避けつつ、別の場では物事がうまくいかない原因を取り繕うために更なる見栄を張っていたのだ。

メンツに固執して強がっていても、所詮は嘘と妄想に過ぎない。彼らはメンツを崩すような「本物」と並んで比較されないように、自分が下位に認定されないように、必死で本物を避ける。この種の連中を避けるためのヒントは「本物としての生き方」にある。