めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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話し合いの邪魔者とアジェンダ

アジェンダ」という横文字がここ数年使われるようになった。目標、といえばそうなのだが、どちらかというと原義では取り組んでいくことを視野に入れた目標、という意味らしい。そのようなまさしく、アジェンダを話し合う場において、その場をぶち壊しにする者がいる。人物というよりは話の内容だろうか。だからこそ、この言葉は単なる「目標」といえばいい程度の軽さしか持つことができず、わざわざ横文字にしなくてもよさそうなビジネス用語として認識されるしかない。
具体的な取り組みが必要なので開催している話し合いの場なのに、取り組みについて語ることができない。そんなあたりからアジェンダという言葉は空文化しだす。
よくあるのが机上の空論を語りだすことだ。「・・・のはずだ」、「・・・するべきだ」、と言う。だが、現実はそうではないという事実から目をそらそうとしていることを忘れてはならない。
やりたいことは現状を把握して、それに基づいた解決法を作ることなのに、はなから物事を決めつけて片づけようとする。問題は、それで会議の場は終わらせられるかもしれないが、机上の空論が現状に当てはまらないのでは議題が解決したとは言えず、会議をしたというつもりにはなれても、結局困っている人たちを放置する結果で終わってしまう。
会議を開催するのに時間がかかるし、そのための参加者の日程を調整したり、時には遠方からも人が来るというのに、その内容がこれでは時間と費用の無駄だろう。正直、聞きたいのは自分たちの力で対処していく道筋だ。意見が未熟でもいい。未熟なら、他の参加者がサポートして強い意見に仕上げて、自分たちで実行していく方法をゼロから構築したっていいのだ。
それから、会議のために会議をする人たちというのが一定数いる。これは、そうすることで自分たちが困っている人たちに何かしたつもりになってウットリしたり、有識者にでもなったつもりになったり、単に話を引っ掻き回しているだけなのに参加したつもりになっている人たちである。
こういった連中の決まり文句は、「十分な議論が尽くされていない」である。この言葉で自分たちに都合の良い方向に結論が進んだり、自分たちが目立てなかったりすると、会議の場を引っ掻き回して長引かせたり、流会させたりして、決定を持ち越しに追い込む。結果として困っている人たちは、具体的な方策が決まるのが先送りになるので、困っている状況は維持されてしまう。
そもそも十分な議論、完全な議論が必要かは疑問である。不十分であっても都度修正をしていって、まずは解決のために動くこともできる。押し切って決めたのではなく、問題解決を急ぐためならば、修正のためのルールを付加すればよいだけの話である。そもそも、問題を取り巻く状況は社会情勢に応じて変化しうるのに、完全な状態とはどの段階のことなのだろうか。そして、その議論が完全であるという保証も無いのである。
だから、議論は不十分でもよいと思う。そして、十分な議論を求めて結論を長引かせようとするような人たちには社会的弱者は用心したほうがよいだろう。彼らは問題を解決する気は初めから無い。だから、彼らを頼みにしていると、すぐに国が悪いという主張とか、「・・・すべきです」と実現しそうにもない理想の実現を語られて、勢力拡大のために連れまわされて利用され、肝心の問題は解決しないという結果になる。
そして、ダメな会議の〆は大体決まった言葉で終わる。「・・・についてこれからも考えていかなければならない」という趣旨の内容だ。この言葉に会議の本質が詰まっている。散々会議に人を動員して拘束しておきながら、会議の時間中は何も考えていなかったと宣言しているのである。そして、おそらくは口では今後も考えるような姿勢を示しながらも、実際には何も考えないで過ごしていくのだろう。もちろん考えるだけで何も実行しない。物事を考える場でこの言葉が出るたびにガッカリするのは私だけだろうか。
この種の結論をあいまいにする話し方は、対立を恐れる人たちにはちょうど良いだろう。だが、対立している問題があるからこそ話し合っているのに、それに触れることを避けたら話し合いにならないではないか。だから、何の対立を恐れているのかよく分からない。幼稚園児のごっこ遊びのように、みんな仲良し、みんな正しい、そう言いながら冷酷にも問題を持ち越そうとするのならば、何も決められはしないだろうから会議の場に来てはいけない。
いわゆるリベラルと言われる人たちの集会や討論会は、どうもダメな会議の流れをそのまま踏襲しているように見える。集まることで物事が進むわけではなく、参加者が勝手に知識の披露や喚き散らしをして、最後は「考えていきましょう」で終わる。外的に取り組みをしていくための集まり、というよりはむしろ内輪の満足的な意味合いしか有していないような集会だ。議題はそのための飾りに過ぎない。アジェンダのない社会運動が衰退するのは、社会の進歩のための活動ならば当然だろう。