めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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田舎暮らしには結局批判的

田舎暮らしをめぐるあれこれの問題について書いてきたわけだが、結局筆者の見解としては田舎暮らしを美化する傾向には批判的である。そう考えるようになった背景には、これまで色々と書いてきたような部分に疑問を抱くからであり、また、地方においても都市部の人たちが考える「田舎」とは真逆の傾向があると感じるからだ。

企業や住宅の郊外移転が失敗して都心回帰しているように、地方の中においてさえ土地が潤沢にある過疎地よりも、中心的な機能が集約している便利の良いところに集まって暮らす傾向がある。一見のどかに見える地方においてさえ、プチ都心回帰とでも言うべき中心部集中の傾向はある。地価を見てもそれは如実に現れており、高知市長崎市の地価は下手な都市部よりも高い。たとえ東京や大阪などまで何時間もかかる不便な土地であっても。

田園地帯でも、住居はまばらに建っていない。大抵は商店や役場や学校などがあるあたりに集落が形成されていて、地価の割にはごみごみと密集して暮らしているのである。旧宿場町などの風景を思い起こしてほしい。道沿いに民家の軒先が連なっているだろう。集まって住んだほうがコストがかからないし、生活するうえでは便利だからである。

個人に自動車のない時代が長かったから、生活に必要な場所に歩いて行ける場所、電機や水道などの公共インフラを引いてきたときに余計に末端を延長する負担をしなくても届く距離、地域の予算内で道路が敷設できる場所、こうやって絞り込んでいくと人が居住するエリアというのは案外限られた範囲内に収まるのである。今よりもインフラに投資できる公的な資金が潤沢ではなく、自己負担や地域負担率が高かった時代だと、たった数軒の家のために水道管や電線を自己負担で延長するよりは、本幹に近いところに住んだほうが合理的なのである。

そして、かつては人が住んでいたが今は無人島になったり山間の廃墟となった地域は、自分たちの力だけではインフラを敷設したり維持したり、購買や医療などを賄えずに生活が成り立たなくなった、そう判断したときに人々が去った。

それとは対照的に、今は負担感が覆い隠されている。ライフラインを維持するためにどれだけコストがかかっているか、人材やお金が必要か、それを意識しない者が多い。だから、なんでも国や行政のせいにして、補助を求める。そして、文句を言えば行政が何とかしてくれる、何でもしてくれる、と思っている。

だが、それは過信だろう。そう過信している間に、本来の自分たちのポテンシャルが思った以上に低いことを忘れて、緊急時になって仇になる。

2014年2月の豪雪では首都圏から普段は1時間とちょっと程度の距離にある大月あたりで電車が雪で動けなくなり、3日間近くも乗客が閉じ込められたり、一部の集落では孤立する事態も生じた。2月末になっても山梨県の一部の地域がいまだに雪で孤立したままの状態だったことは記憶に新しい。あるいは、山間部では毎年のように土砂崩れで国道が崩落する事故も起こっているだろう。

こんな時の僻地は、人為的な支援のない状態に戻ったに等しい。どれだけ手厚い支援でも、来ない物はゼロとしか言いようがないのだ。孤立状態で周囲からの道路や電線が寸断され、電力も物資の補給もできなくなる。全て閉ざされたコミュニティにいる人たちが賄って行かなければ生存できない。必要な物資も、灯りも熱も、それから急病人の対応も。

生命維持装置が切れた状態で病人が自力でどれくらい生存できるのか、それは重症度によるだろう。災害時の僻地も、住人が自分たちの生活を維持できないレベルの人たちばかりが居住していると、普段当てにしている支援がアプローチできなくなったときに死に絶えるだろう。

だから、過疎の集落に田舎暮らしで若者が移住すれば大安心、というわけでもないのである。集落の平均年齢は下がるが、地域を維持するコストや脆弱性は変わらない。せいぜい雪かきくらいはできると思うが・・・