めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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村社会の実態

「村社会」の色合いの濃い地域の高校に通っていた。
本当に腐った地域だった。
まるで近親相姦でもしたかのように同じような顔ぶれで何百年、何千年とウジウジと暮らし、仲間内のヒエラルキーを互いに自画自賛しあって傷をなめあう。こうやってお互いの利権を守りあいながら、自分たちの権威を脅かす邪魔な余所者を排除してきた体質が、地域の陰湿な雰囲気や住民のギスギスした人格に現れていた。地域住民は人の足元を見て、媚びるかバカにするかを決めるようなどうしようもない連中の集まりだった。
そして、一旦格下認定した余所者に対しては何をしても許される、というゆがんだ思想が垣間見られる土地だった。他人をバカにして楽しむくらいしか娯楽が無いし人間としての能もない村人であるが、自分たちの村の仲間をターゲットにすると自分たちの仲間の腹を痛める結果になってしまう、だから余所者をターゲットにすれば自分たちには何の害もないから波風が立たない、というふざけた理由で私達一家はいろいろと嫌がらせをされた。
とにかく、何をやっても言いがかりをつけられて私達一家が悪いなどと意味不明の批判をされた。
私も、勉強をするのが気に入らない、俺らよりできるのが生意気だ、といったさまざまな理由を思いついては因縁をつけてくるという、意味不明の嫌がらせが学校で日常茶飯事だった。帰宅したら帰宅したで、周辺住民から嫌味を言われた。子供に勉強をさせているのは甘やかしてけしからんだの、余所者で田んぼもない格下のくせに派手な暮らしで生意気だの、そんなことを数名で固まって家の中に聞こえるように大声で騒ぐのである。
しまいには、見ず知らずの老婆からどこの国の言葉かも分らないような言葉で面罵されるのだから、一回住んでみれば誰でもこの地域はチョッとおかしいと思うことだろう。地域内を歩いていると、何か監視されるような視線を感じるようなところだった。ああやって、息をひそめながら全神経を集中させて相互を監視し、村の安っぽい上下関係を維持し続けてきたのだろう。
学校での嫌がらせを教師に相談しても「村人」たちの擁護に回るだけで何もしてくれなかった。そもそも、その高校は地元の村社会のヒエラルキーのトップたちの子弟に箔をつけるために作られた新設の自称進学校だった。村人たちの見栄のためにあるのだから、顔色をうかがうのは常に村人の側だけだった。そして、それで学校から嫌がらせのお墨付きを得たと言わんばかりに嫌がらせは激しくなった。
そして、受験になると教師は高校が大量合格実績を強調する地元大の受験に私を駆り出そうとした。しかし、地元大では卒業後に就職が無理だったので、東京の大学に行きたいと言った。すると教師は、東京に憧れるな、学歴が全てではない、地元もいい、みんな地元大に進学して就職している、などと言い出した。そして、地元に感謝をしろだの、恩知らずだのと罵倒された。
東京に憧れるも何も、そこに行かなければ出来ないことが沢山あったから、そこに行くしかなかった。そして、地元に残る限り自分には何のメリットもなかった。地元の恵まれた家庭なら学歴が無くても親の七光りで難なくやって行けることだろう。彼らは学歴よりも狭いコミュニティーの上下関係が全てだからだ。
だが、村人のようにしがみつく田畑があるわけでもなく、よそ者として排除されてきた私に、同じ道を歩む権利はなかった。地元でしか通用しないような学歴で地元で職を探すしかなく、しかも地元民ではないのだから、かならず就職で不利になると直感した。今の今まで排他的な扱いをされてきたのに、一転して彼らが親切になって仕事に就かせてくれたり、生活を保証してくれるとは思えなかった。むしろ一生標的にされ、何をやっても攻撃され、得るものがあったら奪われ、創り出したものがあれば壊されるを繰り返されるのは目に見えていた。言いがかりに応じる形で言いなりになっていたら、最後には日常生活のすべてのことが何もできなくなる。何もできないということは、生活できないということだ。生存できないということだ。実質死ねと言われて、その要求に譲歩しろというのか。
だから、そんな信用できないものを当てにするよりも、自分の力で評価を得て、社会的に地位を築くほうが自分には有利であると考えた。よく、物事を挑戦することを批判する連中が、与えられた選択肢の中で生きろなどということを言い出す。しかし、私にはその選択肢すらなかった。そもそも選択肢が無いのだから、そんな価値観を打破したところに行かなければならなかった。そして、その結論は貫いた。
その後、嫌がらせは一層ひどくなった。家族の誹謗中傷をされたり、ヤクザの家だのとありもしないことを言いふらされた。お前たちを住めないようにしてやるとか、どこまでも追いかけて嫌がらせをしてやるという、それこそヤクザまがいの脅迫も受けた。
こんな土地で将来を潰されてはたまらないので、春も間近の寒い夜のこと、上京した。ホームレス同然の暮らしをしながら浪人をして、ある大学に合格した。誰も祝ってくれる人はいなかった。憎しみの言葉、妬みの言葉、否定の言葉を背中に受けながら私は糞田舎を後にした。
もし、あのとき教師の言うことに従っていれば、私は本当は村社会の恩恵に預かれたのかもしれない。あるいは、村人たちが余所者排除などということをしなければ私も疑わずに彼らの仲間入りをして、そのことでどれだけ人生が損をしていようが気付かずに、今、全く別の生き方をしていたのかもしれない。閉鎖的で陰湿な村社会の中で卑屈と卑劣をうまく使い分けて立ち回っていく生活が一生続く。将来の希望など初めから見出せない。今日も明日も同じようなことを繰り返して、幼稚なままで歳ばかりとっていく。そんな生活があり得た。
不可逆な時間の流れの中で過去の一時点におけるifを唱えること自体が愚かではあるが、人生の岐路の重みを時々考えてしまう。