めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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根拠のない賞賛の正体

他人から異様に賞賛されて持ち上げられるとき、なぜその扱いを受けるのかと訝しくなる事がある。

普通はチヤホヤされるとうれしくなって舞い上がるのかもしれないが、どうにもそう思えず、却って冷静になって現在の事態を把握しようと頭が働きだす事がある。絶賛されるに値するだけの業績が出ていなかったり、物事に対して熟達していないのに、エキスパートとか師匠扱いされるような時だ。

そんな時、大した事ないと自分自身が自覚できるのに、実態も中身もないことで賞賛を受けるのはおかしいと思い直す。そうすると、相手がなぜこのような態度を取ろうとしているのかが見えてくる。相手を絶賛して、その気にさせることで自分になびくように仕向け、通常ならば到底許しがたい要求を出すと絶賛されていい気になった流れで応じてくれると見込んでいるのだろう。

だが、根拠のない絶賛に違和感を感じたり、職業上の倫理観が残っていたら、許しがたい求めを提示されたときに冷静になる。そして、要求内容に対して説明を求めると、一気に相手の正体が露見する。矛盾点や不審点を追求しようとすると「もういい」と話を切って追求から逃げようとする。そちらはよくても、こちらはよくない。あるいは、急に居直って脅してくる場合もある。こうして、散々お世辞を並べ立てていたが、結局は使い捨て程度にしか相手を見ていなかったという事が改めて浮き彫りになる。そして、相手の真意を見抜けないと損害と責任をすべて負わされて、奪えるものは全て奪われて逃げられてしまうのである。

宇治拾遺物語で獣に騙された山奥の僧と猟師の話がある。山奥の寺を訪れた猟師に、毎晩仏が現れるという話を僧侶がする。それは小僧も見ているので間違いないという。それを聞いた猟師は「オカシイ」と思う。そして夜になると、闇の中に光り輝く仏が現れる。一心不乱に祈る僧侶と小僧の横で、違和感が頂点に達した猟師は仏に矢を射かける。なんてことをしてくれたのだと色めき立つ僧侶だったが、仏教の素養が無く殺生を業とする自分や信仰の浅い小僧に有り難い仏が見えるわけがない、これは悪い物が僧侶の命を狙っているのだと説明する。翌朝見に行ってみると、大きな獣が死んでいた。僧侶は仏教の素養があったが世間の常識には無知だったが、猟師は仏教の素養は無いものの常識に即して冷静になれたので騙されなかったと教訓が続く。

無知の万能感、ビギナーの実態を伴わない達成感は判断を誤らせる原因である。世間知らずが己の生きている狭い世界の中で物事に優劣をつけて万能ぶったり、賢ぶっているところにつけこんで利用しようとする悪人がいるのは事実である。

そのようなものと違って、熟達者にも虚の部分が出る。それは、熟達者が欲望を捨てきれないときに出る。宇治拾遺物語の「猟師、仏を射る」の話はその部分も指摘しているように思える。単に教養や常識の問題ではないと思うのだ。本当に教養のない者だったら、目の前で神秘現象が起こったら、それを信じやしないか。ましてや、常識と言っても科学的に物事を判断するような時代ではなかった。本当は、僧侶が仏が見えることに固執したところがこの話の本質だと思うのだ。

何年も特定の分野にいると、本当は他にやりたい分野があったとしてもキャリアを引き返せなくなる。そうすると、これまで時間を投入してきた見返りを求めるようになる。永年やってきたのだから、何かしらの成果が得られる。修行してきたのだから、特殊な力が身につく。時間やお金を沢山投入してきたのだから、相応の報いがあってよい。そう考えるようになる。しかも、今更後戻りできない老い先の短いキャリアなので、尚更成果との引き換えに固執する。この虚の部分もまた、判断を誤る元である。何より、熟達者が失態を犯すと社会的影響や損失が大きくなるので事態は深刻だ。

防衛省の元幹部がロシアのスパイに機密持ち出しを持ちかけられ、訓練の資料を提供したという事件が報じられた。元幹部はロシアのスパイから「親しい間柄」という雰囲気で接触を重ねていくうちに、師匠師匠と絶賛されていい気になり、つい求めに応じてしまったという。国の存亡をかけて他国で活動している外交官が、何の目的もなく相手と接触するわけがないし、敵に客観的に評価を下して勝つことを考えるプロが無根拠な感情論の絶賛をするわけがない。根拠がないのに絶賛されるのには裏があるのである。それを見抜いた者だけが生き残れる。