めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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9月1日の図書館はその後どうなった?

鎌倉市の図書館が8月の終わりごろに「学校が辛いなら9月1日は図書館へ」と鎌倉市図書館公式のTwitterで呼びかけた。これに対して共感したのか知らないが、沢山RTがついてネットニュースを中心に一般向けメディアでも取り上げられた。 さて、今は12月である。あの時に鎌倉市図書館の呼びかけに共感した人達は、その後どうしているだろうか。まさか、ちょっと前のアイスバケツチャレンジのように、一時的にカワイソウと賛同・共感しておいて、今ではきれいさっぱり忘れ去っているわけではあるまい。 子供たちの困窮は、一時的に彼らの慈善心を満たすための消費対象ではない。脚光を浴びなくなってからもサポートは続けなければならない性質のものである。散々賛同していた人たちは、彼らとして子供達にどのような援助の手を差し伸べたのだろうか。いつまでも図書館にはいられない。RTして賛同したり呼びかけたりしたところで、当事者の助けになるものが渡らなければ現状は変わらない。 現実、学力差は開いていくし、中学生なら高校進学の選択に迫られる。これらの機を逃すと、いまどき中卒の学歴で社会に放り出して、彼らの状況を一層悪くする。 どのような事情で学校に行けなくなったかはともかく、図書館に行かせただけで次に何をするかの取り組みをしないままで、彼らが高校卒業程度の年齢になった時、学齢期にはかわいそうな事情があると同情していた世間の目は、同年代の無職引きこもりニートに対する犯罪予備軍やごく潰しでも見るような冷たい扱いに急変する。 これでは支援しているように見せかけて、途中で自己責任に振り替えて切り捨てるに等しい行為であり、無責任な言い放ちの罪は重い。中高年ニートだって、元はそんな事情の人たちが加齢しただけだと思うのだ。 一連のツイッター騒動の時の支援らしきものに甘えるという生き方の他に、彼らを振り切って強く生きる生き方がある。どうせ、ツイートを拡散していた人たちは憐れみはしても、何の方策を示すわけでも物心両面の支援を与えてくれるわけではない。彼らのツイート拡散のお陰で、状況は改善したか?所詮は口だけだ。 学校や地域の狭い世界だけが一生のすべてではない。それ以外の世界もある。くだらないことで優劣をつけてこないし、喜びもたくさんある。そんな外の世界を知ったら、そこに出て行って、どれだけ幸せになってもよい。それを邪魔する権利は誰も持っていない。ただ、次どうするか決定して取り組む決定権は自分しか持っていない。決めるのは自分であり、他の人は決めてくれない。物事をスタートさせるのは自分が取り組むことによってである。他の人は代わりにやってくれない。 こんなブログを当事者が見ているわけがないので、書いたところで伝わるかもわからない。だが、そろそろ図書館から巣立ったら。