めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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多様性を求める者ほど多様性に不寛容である

自分と他人は別の存在である。当たり前のことだ。相手の全てを知ったつもりになっていても知らないこともあろうし、全てを公開しなければならない義務というのは無い。全てを知る必要もないし、実際相手の知らない面に接していて気づくことがあり、その時に自分と相手の価値観の違いを知ることになる。

そんな時に、大抵の人たちは異を唱えて大騒ぎをし、自分の意に沿うようにさせようとはしない。相手の価値観が社会的に害を及ぼすものだったり、自分の価値観に介入してきてコントロールしようとしているようなものでない限り、寛容な態度をとる。相手の価値観を尊重したり、否定をしない態度をとる。自分が同じことをされても困るからだ。

ところが、真逆の反応をする者がいる。相手に対して異常に同質性を求め、少しでもその価値観から逸れると怒り狂う。そんなタイプがいる。そして、なぜかそのようなタイプほど「多様性の尊重」や「共に生きる社会」といったフレーズが大好きである。他者には寛容さを求めるのに、肝心の自分自身には寛容さが全く無い。そんなタイプは、いわゆる左翼とかリベラルと呼ばれる層の人たちのタイプと重なっている。

この手の連中が結成する団体を見ていると、様々な主張を掲げて団体を結成するのだが分裂する。

本来は団体の主張する社会の不条理に抗するために団体を結成したはずだったのだが、団体内のメンバーの間で問題をとらえる価値観や社会背景の違いが次第に明らかになってくると、そのメンバーの中で主張に忠実であるか否かのあぶり出しが始まる。そして、少しでも意見に相違がみられると、徹底して足を引っ張って団体から排除する。こうして、社会の中で自分たちの主張を認めさせることで多様性を実現するために結成した団体だったはずなのに、そもそも団体がメンバーの多様性を認めないというおかしな状態になる。

似たような傾向をたどる団体がある。それは、反社会勢力のような上下関係が徹底しているところだ。上に従わないと団体からの排除対象となり、それが承服できないならば内部闘争をして勝ち残ろうとする争いを生む。だから、多様性を主張する団体の本質は多様性を認めない団体と同質だったのである。

あるいは、勝手に他者に対してシンパシーを抱いて仲間扱いして絶賛していたのだが、ある時に自分たちの意見と異なる意見をしているのを見て、一気に批判の急先鋒に回って徹底して貶めるようになる者もいるだろう。他者のことをほめたり、貶めたり、その起伏が激しい。

自他の違い、意見や価値観の違い、そういったものはいくらでも存在している。いちいち異を唱えて回ったり、排除して回り切れないほど無数に存在している。いちいち排除して回っていたら、一生かかっても自分の思い通りにならないほどに存在している。本来、そういったことは小さいうちから他者との触れ合いを通じて認めたり、納得していくものなのだと思う。こうして他者との間の距離感が生まれてくる。

ところが、そういった経験が欠如したままで成長してしまう者が一定数いる。彼らは、自他の区別を認めない。だから、他者との同質性があって当たり前だと思っている。だから、本来は同質でも何でもないような「みんな」に距離感なく擦り寄る。そのような「みんな」が集まりやすい団体というのがあって、大抵それらが独特の距離感の無さゆえに社会から受け入れられない彼らを認めてくれるような団体なわけである。そこで相違性に直面すると容易に相手の排除に走る。相手が自分と同質でないと納得がいかないし、その基準は絶対的なもので許容の余白部分が無い。絶対的に均質的に他者との同質性が保たれないと安心できないのだ。

ブログで個人が簡単に情報発信できる機会が増えて、この種の人たちもたくさん情報発信している。病気とか障害とか、ある種の社会マイノリティとか、嗜好とか、そういったものの当事者の情報を発信して社会の理解を得るという名目のサイトが多数ある。その種の目的のサイトを見ていると、かなりの率で自他の識別の歪みを感じる。