めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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「十分な状態」を追い求める無駄

十分な国語力がないのに、小学生の段階での英語教育の早期実施は反対という声がある。だが、この十分な国語能力なるものが何かについて、いっこうにはっきりしない。そもそも、世の中に十分な国語力なるものを備えた人たちはどれほどいるのか。誰が認定して十分とみなすのか。批判者はそれだけの能力を有しているのか。そして、英語を履修する中学や高校の段階になったら十分な国語力なるものは具備されていると言い切れる根拠があるのか。だから、十分な国語力なるものの養成を待ったところで、その時期は来ないのではないだろうか。それならば、さっさと英語教育もしてしまいなさいということだ。

あるいは、放射脳な人たちが長期的な影響は不明だと称して、自然界にふつうに放出している放射線まで遮断しろと主張しているのも同様である。長期的というのはどれほどの期間なのか。長期的に生態系に変化が出たとして、単に自然界で一般的にみられる進化や淘汰ではないのか、そして長期的影響を心配する前に短期的な影響はあったのか。短期的影響が目立たないレベルだとして、長期的に影響が残留して変化を起こす可能性はどれほどなのか。考えれば考えるほど、十分に安心できる状態なるものの基準が曖昧になる。

この種の議論に割って入って、十分な議論が尽くされていないと主張して審議を止めて、物事の決定・対策のための前進の動きを止め、自分たちの主張を通そうとする連中がいる。しかし、物事が止まっている間に彼らが目立ったり利得を得ることができても、そもそも議論の対象になっている困っている人たちの現状は放置されたままであり、十分な議論なるものを尽くそうとしても都度引っ掻き回されて話がリセットし、困っている人たちは困っているままの状態を続けることを強いられる羽目になる。

「十分な状態」なるものを求める一方で、その十分な状態を具体的に説明することができない者がいないだろうか。

物事に対して、不十分だというマイナスな評価をする。その評価を下すということは、その物事が特定の基準を満たしていないから、それを上回ることを求めているはずである。ところが、その基準が不明なので何を以って十分とみなすのかと逆に訊いてみると、言葉を濁すのである。

要するに、こだわりとか主観の範疇を出ておらず、単に気に入る・気に入らないのレベルで物事を選んでいるにもかかわらず、そこに如何にもきちんとした基準があるかのように十分である・十分でないと取り繕っているに過ぎない。そんなことをする目的は不明である。使用人をこき使う主人気分になりたいのかもしれないし、その場を引っ掻き回して自分の思い通りにしたいのかもしれないし、単に賢ぶっている馬鹿者なのかもしれない。

十分な域に達していないからダメだといって物事の進行を食い止める連中があちこちで暗躍している。そんな言動で物事の手を止められたとき、相手にするほかに無視して当初の方針を貫くという対処方法もある。