めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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「本場」にこだわる人達の胡散臭さ

日本の芸能人がちょろっと渡米して現地で見たものの模倣をして、「本場アメリカのエンターテイメント」とかやりだすと、急に支持を失って飽きられる。

本場という言葉を持ち出されても、そもそも本場のものとは何かを観客が知らなかったり、そもそもそんな知識があるなら「本場に非ざるまがい物」の日本の芸能人の出し物など見には来ないだろう。だから、本場を知る者からすると、そのようなこだわりを持ち出す事自体がバカバカしい次元であって、相手にされない。

また、文化の背景が違うのだから、本場とは嗜好が違うのは当たり前だ。現地のエンターテイメントの模倣をすると、そのまま現地と同じように楽しんでもらえるわけではない。だが、現地なりの楽しみ方は「本場」なるこだわりに否定されるので、どのように楽しんだものか途方に暮れる。

結局、「本場」なるものは芸能人本人が本場のものを演じているつもりになって自己満足しているだけで、周囲には「お前たちは本物を知らない愚か者」という思い上がりと決めつけだけが先行し、観る側からすれば楽しみ方を押し付けられる気がしてしらける結果になる。

この種の本場のナントカをやらかす輩は、エンターテイメントに限らず色々な分野に潜伏している。教育の分野にも料理の分野にもいる。だが、本場でなくてよいと思うのだ。本場のナントカが大好きな人たちが絶対的に正しいと押し付けてくるそれは、日本の国としての事情や人々の嗜好に必ずしもマッチしない。だから、押し付けたところで「合わない」という不具合が顕在化して、事を進めるほどそれが大きくなる。

本場のインド料理や中華料理は本当においしいと思ってもらえるだろうか。多分、辛すぎて食べられなかったり、直視したくない醜い食材が登場するだろう。食べることを躊躇しない自信はあるだろうか。無理やりでも日本人の嗜好に合うのだと言い聞かせる必要はあるだろうか。そこまでしてでも本場のナントカは最高なのだろうか。

「本場」を模倣することほど馬鹿馬鹿しいことは無いのだ。別の国の文化を受け入れて、自分たちの文化の中でそれを自分たちの手段としてものにするというときには、模倣ではいけないのではないだろうか。オリジナルをそのまま導入する必要はなく、自分たちの文化の中で扱いやすいように自分たちなりのアレンジをして、自分たちの文化の意識の中でそれを当たり前の手段として使えるようになるプロセスを経る必要があるのではないだろうか。

明治以降の日本の国際社会への進出は、西洋のまねをした舞踏会によって発展したのではなく、日本としての考えを国際社会の議論の形式の中で主張できるように努力したからだろう。当時の風刺絵でも舞踏会は猿真似に過ぎないと喝破されていた。それから100年近く経って、「本場」にこだわる人たちを見ていると、あの風刺絵が目に浮かぶ。