めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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自分は他人になれないという話

当たり前の話だが、自分と他人は別人格、別の存在である。どれだけ仲がよかろうが、一心同体という言葉があろうが、同一な存在にはなれない。自分は他人にはなれない。

ところが、その理屈が理解できない人たちというのがこの世には存在するようである。

他人が羨ましいものを有している。あるいは手に入れようとしている。相手は自分と能力面でも、社会的地位も、経済的地位も、同程度かあるいは相手が劣るという認識を抱いている。そこで、自分が得られないものを相手が得るのはおかしい、許されないという主張をしだす者が出てくる。

彼らの考えは、社会性に欠ける性格だったり、それを注意するものが周囲にいないような環境だと、独善性がエスカレートして、次第に凶暴性を帯びてくる。そして、相手の邪魔をしたり嫌がらせをしても、自分より下だから何をしても許されると考えるようになる。揺さぶりをかければ、相手はそれを放棄することを期待している。そうすると、それが自分のところに転がり込んでくる、そう考えているのである。

他人の成功をねたむ者は、大なり小なりこの手の思考形式である。自分で成果を生み出せないから、他人から好かれないから、奪おうとするのである。

だが、これも当たり前の話なのだが、その考えは甘いだろう。

そもそも、相手がどれだけ自分よりも格下だろうとも、彼らが努力していることを馬鹿にする筋合いはないだろうし、ましてや、努力によって成果が出ているという事実は否定できない。また、彼らが不服に思っている社会的な評価を与えているものの選別眼を否定しておきながら、同じ相手から自分が評価されることを期待するのも矛盾した話だ。

どれだけあがいても、自分という存在は他人にはなれない。色々な意味で、これまでの生き方の総決算が現在の自分の姿だ。だから、他人のポジションを伺って、それを望んだり、奪ったところで他人と同じようには振る舞えない。そして、他人のまねをしたところで、周囲の評価や扱いは信念や思想のあるオリジナルと劣化コピーでは違うのである。他人のポジションは相手のそれまでの生き方の一つの形が出たものなのだから。