めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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妥当という判断基準

自分の主張が正しいという主張に固執する人たちほど、その実は正しい主張を判断するための基準が定まっていない。
そうすると、実際のところは自分で物事について考えたり、意見を持ったりすることはできない。要するに、自分が正しいと言っている割には正しい考え方なるものを自分ですることができないのである。その結果、思考内容は突飛な極論に走ってでも自己正当化するか、テレビで見た内容をそのまま話したり、他者に聞いた内容をそのまま話したり、自分以外に依存することになる。
物事について知ろうとするために、彼らが近寄ってくることがある。この時にやり取りをしていて感じるのは、彼らは「間違っている」と言うことを異様に恐れているのか、絶対的に正しい答えを聞き出すことに必死であるということだ。本当にそれがあるのかどうかは分からないだろう。しかし、それがあると思っていて、それを知ろうとする。
ところが、「絶対的に正しい、他は間違っている」という答えを言いようのない場合があるだろう。
一つは方法が定まっておらず、ケースに応じて対応しなければならない場合だ。この場合は、特定の方法を正しいと押し付けても、相手がそう思わなかったり、その事情に当てはまらないのであれば、正しいは「正しくない」。8割に当てはまる、と言ったところでケースが残り2割への対応だったら、その8割という数字は初めから意味が無い。
もう一つは、出す意見は正しくないといけない場合だ。まともな話し合いの場では明らかに間違っていることや、反社会的な意見と言うものは出てこないだろう。その場合、大抵の意見は正しい・間違っているという基準でいえば正しいの範疇に入るのである。そうすると、結論は正しい意見の中の選別という新しい段階に入る。
正しい・間違っている、が判断基準にならない場合は、何でも自分が正しいに固執する人たちが思っている以上に多いように見受けられる。そして、正しいのは必須条件で、そこから何がケースに対して妥当に当てはまるか、という選別が問題の焦点になる場合が多い。
正しい・間違っている論に固執している人たちは、正しい中から物を選ぶ段階に進むことができない。いつまでも自分が正しいに終始するだろう。だから、自分の主張が正しいと言い張っているときに、はたから見ると彼らは幼稚に見えるのである。
自分が正しいと主張できるのは、世間を狭い半径でしか網羅していないからこそだろう。
そういったスタンスは、小中学生なら許されたし、褒められたかもしれない。小中学生が「ぼく・わたしの・・・プラン」などと発表して、環境問題だの世界平和だのを語ろうが、新聞に載ろうが、誰もおかしいとは思わない。学級会の内容など、当事者としての社会への影響は皆無であるし、学校などの団体運営は教師が裁量を持っていて、彼らの主張とは別で進行していくからだ。
だが、もう今はその土俵にはいない。そんな幼稚なことをして周囲がニコニコと見守る状況にはいないのである。場面の切り替えを自覚出来ないと色々不都合も起こるだろう。