世の中に100%の悪というのは稀にしか存在しない。
例えば、社会的に問題となるような悪事を働いているカルト宗教とか政治団体というのがあるだろう。そういったものを批判するときに、「・・・にもいい人はいる」とか、「・・・も良いことを言っている」という擁護を聞くことがあるだろう。
いくら反社会的でも、カルト宗教だって、カルト政治団体だって、それっぽい良いことは言うものだ。だからこそ、巨額のお布施や妄信する信者を獲得できる。そして団体が無くならない。
だから、全体の中の一部分に過ぎないよく見える部分だけ切り取って物事を判断し、悪い部分を意図的に見ないようにするというのは危険な行為だ。そのことを忘れると、道を過ち、取り返しのつかないことをしてしまう。
わかりやすい話、暴力団は法的に害悪と決めつけられてしまっているが、彼らが100%悪なのであれば、例えば自動車を運転しているときはことごとく交通ルールを守らずに、事故でも起こして自滅しているだろう。少なくとも、交通ルールは守っているという意味では善の部分はある。善の部分があるからと言って、反社会集団である暴力団に加入したいと考えたり、シンパシーを感じる者が一般市民の中にどれほどいるだろうか。彼らは一般市民が関与を躊躇するだけのことをしている。
だから、何割か悪で、何割か善というものが大抵の場合であって、その悪の部分が総合的に問題だからこそ、「悪」として糾弾されているというものがほとんどだろう。数割の善の部分だけを見て、悪の部分に目を瞑って、それは「本当は善だ」と言うのは恣意的な切り取りである。大事なのは、善の部分も悪の部分もすべて目を通して、総合的に下す判断だろう。