めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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「幸せ」を強制しないで

社会主義国のように個人の主観に国家権力が介入してきて、個人がどのように感じるのかすらもコントロールされなければならないと考えるような体制を当たり前のものとして生きている人たちには理解してもらえないであろう概念のひとつに、「幸せの定義を勝手に決めて、それを強制するな」というかなり切実な訴えがある。

ちょっと前にあった「ブータンは世界一幸福な国」とか「福井県は県民幸福度が日本一」といった、何を指標として幸福を測定しているのかが不明なままで「幸福」という単語が独り歩きし、幸福と感じることが義務となるのだとすれば、それはむしろ住民にとっては不幸なことだろう。社会に貧富があったり、個人の事情で大変なことがあったりするように、全員が同じ境遇で同じことを考えているわけではない。その程度の配慮すら欠いているのに幸福になれるのだろうか。

かつて私に対して近寄ってきた者で、左翼活動にはまって所属団体の標榜する社会乗っ取りの理想を語ってきた者も、カルト宗教をしつこく勧誘してきた者も、理想や幸福という言葉に酔いしれて目が輝いていた。そして、その意味をよく分かっていなかった。祭りの神輿を取り囲んで騒いでいる野次馬のように、団体の掲げる主張を意味も分からず連呼して、社会的に誰からも相手にされない卑小な己れが、社会全体を動かしている大きな力の一端になっているつもりになって、その一体感に酔いしれているだけだった。

幸せと思うか否かが自己裁量で決定できて、その選別をすり抜けて残った幸福感が本当の幸福を名乗る資格があるだろう。そのように感じないといけないと強制されて、それ以外の選択が残っていないことに違和感を感じない者は幸福と不幸の区別もつかず、どれも一把に幸福と呼ぶのではないだろうか。

なぜいきなりこんなことを書くのか。先日、福井県は幸せな県だと連呼する者がいた。もちろんブータンについても言及していた。そして、「なにが幸福なのか」については提示できずに、幸福幸福と連呼していた。それに同調とうなずきを求められた。それで頭にきたのである。

頭にきたので、福井県の有効求人倍率最低賃金、病床数当たりの医師数と県民の平均寿命、福井大学以外の主要高等教育機関の列挙の3つを質問してみた。今思えば5項目ぐらいあるわけだが、身体的な健康や生活面での安心感、精神的知的な充足、これぐらい満たせれば幸福だろうということで質問してみたわけである。他の地域に比べて病院にすら行けないところで健康に暮らせるのか、就労できずに生活や子育てができるわけもないし、雇用や教育を他の地域に依存している地域は人口流出を引き起こして、一生を通してそこで生活するうえで適しているとは言えないだろう。

この質問をぶつけたところ沈黙されてしまった。要するに「幸福」の内訳を知らないままに、マスコミあたりが報じた内容を鵜呑みにして連呼していたにすぎないのである。この程度で知識人になれると思ったら、それは間違いだと思う。知識人のレベルではないにせよ、人を諭すような口調で上から目線で幸福を語られても、当方は困惑する。

ちなみに、その人物(上から目線で「幸福」を押し付けてきた者)が何故福井県を絶賛していたのかというと、こいつが福井県内の事業所の雇用の公募に応募していたからである。上から目線の大演説のあとで、なぜか志望理由を代筆させられた。書き方を教えろ的な相談で呼び出されて何時間も軟禁されて返してもらえない状態で書かされた。

当然、相手の私的なことなど何も知らないし、他人の志望理由など知る由もないので明確な答えなど作成できるはずもなく、適当に字数を埋めて終わった。そいつはその後、当然不採用になったのだが、途端にコネが無いのが原因だとか、福井県を貶める主張を始めた。「コネがない」と言うが、公募の際に推薦をしてくれた上司はその世界では大物であり、そのコネがしょぼいなどという言い草は責任転嫁以外の何でもない。この程度の度量で幸福を語られても興ざめする。

本当の不採用の原因は、その人格を見抜かれたことだろう。こんな奴を不採用にするあたり、実際福井県の人たちはしっかりした人生観があって幸福に生活しているのかもしれないと思う。