めぐろぐ

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。日常生活の雑多なことを記載していきます。

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普通が一番という前に

新しい物事を始めようとするときに、それをやめさせるために妨害されたことがあった。そのときの言い分がどうにも信用できなくて、一層無視して自分の方針を優先するようになった。

みんなと一緒がいちばんとか普通にしておけばよいだのと言われた。ところが、「みんな」とは誰かと聞くと複数人数いるはずなのに沈黙されてしまうし、周囲にすり寄っても何が得られるかも担保されないから物事を始めるに過ぎない。そして、普通がいいというのだが、その普通になるための努力を否定する理由を聞いても沈黙された。もしかしたら、みんななる存在も普通なるものも、邪魔してくる者の妄想の中の実在しない物が指示してくる病的な状態なのかもしれない。

閉鎖的な村社会の中で大学進学をしようとしたら、村の中のヒエラルキーでよそ者は格下なので許されないと手段を択ばない妨害をされていた時のことである。何も考えない人だと、そういった発言で騙されるのかもしれないが、私の場合はそうはいかなかったのである。足を引っ張ってくる「みんな」に合わせる気など全くないし、それによって急に彼らが親切になって立場や待遇が与えられるわけではないから得るものは何もないことが分かっていた。

そもそも普通も何も、フェアであることを否定することが普通ではないから力をつけてようやく普通になるのであって、彼らの言い分に合わせて何もしないことはかえって普通から遠ざかることは目に見えていた。

これは私の経験のことだったが、それに限らず似たような連中がいるのではないだろうか。

物事の結果を得るために様々な努力をしたり困難を超えてきた人達がいる。彼らは、結果のために相応の時間を割いているし、何かしら犠牲にして結果のために投資してきた。それに対して、何もしないのに結果だけは周囲と同等のものを欲しがろうとする者がいる。その姿勢は人をばかにしている。その結果は一見地味で月並みで、誰もが得られるように見えるものかもしれない。しかし、その当たり前のものを得るために周囲の誰もがしていることをせずに結果だけを欲しがるのは、結果を欲しがる割にそのものを軽んじているようであるし、それを得るために努力している人たちを軽んじている。

例えば、自動車の運転免許などその辺の道でたくさん自動車が走っている分だけ誰もが持っているわけだが、免許取得のための講習なり法令の勉強なりをして皆免許を得ている。それを何もしないで得る権利を主張したら、さすがに自動車の危険性に無知すぎると呆れるだろう。その辺の普通のおっさんだって、家庭なり持ち家なりを持っている。それを得たり維持するのは一定の財力がないとできないことであり、そのために家庭も持ち家もない者よりは努力をしているのである。

みんなとか普通と言われたら、すこしその言葉の内容を疑ったほうがよい。普通であるために必要なことを否定しているのであれば、言いなりにならないほうがよほど普通になれる。